鈴木英夫シンポジウム

アテネフランセ文化センターでの「鈴木英夫シンポジウム」のあと、アテネの松本さん、蓮實重彦クリス・フジワラ、篠崎誠、それに黒沢清の各氏らと食事。黒沢さんが「海外で評価されるのはいいんですけど、日本映画として、日本映画特集みたいな枠だけで見られるのは少し抵抗を感じますね」と言っていたが、それにはまったく同感。もちろん「世界にはばたく日本映画」みたいな枠でないと文化庁も外務省も、あるいは経産省や各種団体だって動きにくかったりするのは分かるし、ある意味では当然だとも思うが、しかし我々がやってるのはあくまで「映画」なのであって、国籍の特殊性だけで色眼鏡で見られるのを自分たちからやる必要もないと思う。
ところで鈴木英夫にもっともよく似た感性を持っている、「鈴木英夫的」というか、鈴木英夫がもっとも近い映画作家と言うのでは、もっともあてはまるのがエドワード・ヤン楊徳昌)だろうと、僕は勝手に思っている。国籍・国境云々でなく、現代社会への目線や考え方、見方が似ているのだ。
クリス・フジワラミケランジェロ・アントニオーニをあげていた。それもそれで納得。ちなみにヤンもアントニオーニも、映画の空間把握がとても建築的である点でも鈴木英夫に共通している。ただそれなら鈴木が撮った「東京」こそ、いちばん魅力的な都市であると東京中毒である僕なんかは言い切ってしまいたくなるけど。
シンポジウムでなぜか増村保造の『偽大学生』と鈴木の共通点みたいな質問が出て、蓮實先生が「増村が『新しいこと』として意識的にやっているようなことを、鈴木英夫は『ただ自分がそうやりたいから、おもしろいから、映画的だから』としてやっている」と、相変わらず一流のハッタリのなかに鋭さを込めたことを言っていた。増村という人は凄いとは思うのだが、『華岡青洲の妻』と『清作の妻』以外はあまり好きになれない監督なのだが、この蓮實先生の指摘には目から鱗。逆にそれだけ分かり易い増村は評価され、鈴木英夫は忘れられかけてたということか?