《新潮 2016年4月号》
- 新潮社
“伯爵夫人”を収録。
[新聞]
http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/bunngeijihyou/2-0055036.html
http://www.sankei.com/life/news/160327/lif1603270036-n1.html
http://www.asahi.com/articles/ASJ3X5R4MJ3XUCVL029.html
[ブログ]
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20160421/p1
[Facebook]
https://www.facebook.com/naomi.watanabe.90663/posts/460727884122833?fref=nf&pnref=story
[Twitter]
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『ハッピーアワー』
- 元町映画館、シアター・イメージフォーラム
”この若い作家の視覚は、背景となった神戸の町を、まるでジャック・リヴェットの撮るパリのような非現実的な空間へと変容せしめ、女性たちを、ジョン・キャサベテスの撮る存在のような驚異の生々しさへと変容せしめている。にもかかわらず、この二十一世紀の女性映画は増村保造にすら似ておらず、独自のあやうさとしたたかさのなかで揺れ続け、見るものを魅了する。上映時間の5時間17分は、平成日本には過ぎた貴重な贈りものだといえる。これを玩味せずにおく理由などまったく存在しない。必見!!!”
『ディアーディアー』
この「いさぎのよい」演出は、驚嘆にあたいする
長編第一作『ディアー ディアー』をスタンダード・サイズで撮りあげた新人監督の「いさぎのよい」演出には、驚嘆すべきものがある。
人物たちが、男も女も、台詞を述べているときより、黙って画面におさまっているときの方が遥かに雄弁だという、何とも的確な「いさぎのよい」画面の連鎖。
大きくて重そうな工場の扉が開かれる瞬間を真っ暗な内部から撮ることで始まる物語が、その扉が閉ざされる瞬間に終わるという視覚的に「いさぎのよい」几帳面さ。ある神話的な動物の不在と現存とをめぐってばらばらになっていた兄弟姉妹が、父親の通夜の晩に、男二人が喪服のまま木魚を凶器として乱闘を演じ、真夜中に女二人が無人の学校の教室で出刃包丁を光らせて乱闘し、その光景を外部からのロングショットでとらえるという「いさぎのよい」的確なキャメラの位置。
その乱闘中の停電が、曖昧に素描されていた神話的な動物と無縁でないことがわかるという、事態の推移の映画的な「いさぎのよさ」。喪服姿の兄弟姉妹が納骨時に父の墓前でふと彼方に視線を向けると、その視界に神話的な動物がほんの一瞬姿を見せるといういかにも呆気ない「いさぎのよさ」。
そのとき一つに結ばれる三人を演じる中村ゆり、斉藤陽一郎、桐生コウジの「いさぎのよい」存在感。
あと十分ほど上映時間を短縮すれば傑作たりえただろう『ディアー ディアー』は、まさに真っ暗な工場のような映画館の暗闇で見られるべき「いさぎのよい」作品にほかならない。