『コロッサル・ユース』 トークショー

 上映前にきっかり30分、蓮實重彦による講義。
 今宵の御大の力の入れようがただごとじゃない。作品に本気で入れ込んでいるのが肌でわかる大熱弁。今日のトークは、生で聞けてよかった!
 ひとつの領域にしかるべき才能が集結するのには、ひとつの規則があると、いきなり切り出す御大。
 どのような世代が「映画」に向かったか(あるいは向かわなかったか)。60年代は比較的高かったのだろう。しかし70年代は音楽に向かったはずだ。そして日本に限れば80年代はマンガだったかもしれない。
 しかし1959年生まれのペドロ・コスタはやや例外ではないか。本来ならこの監督は、音楽に進むのが普通だったはずだ。それにポルトガルの軍事政権のため、ごく自然に映画を選択する状態にはなかったに違いない。
 それが可能になったのは、70年代半ばだった。実際、オルヴェイラが本格的に映画製作を開始するのも74年からだ。
 若きペドロ・コスタの「映画」への目覚めが、その時期にかかっていたのは、たいへん幸福だった。
 なお、ペドロコスタの作品には大きな「断層」があり、その断層は、1:1.33という数字にある。これはもちろんスクリーンサイズである。
 2007年に1.33というスクリーンサイズで映画を撮ることはまったくないはずだ。  そして、これは小津のサイズと同じである。また、スクリーンが「横長」ではない映画を観ることになる。そこをよくご覧いただきたい。
 『ヴァンダの部屋』では、ペドロ・コスタも決して1.33に収まるものでなく、どちらかというと、横への広がりを持つ映画だった。しかし『コロッサル・ユース』は左右を切り詰めた、厳密に1.33のサイズで作られたものである。
 それはどこに現われるのか。人物の背が高く見える。これは小津の映画を観ればよくわかる。このサイズでは、人物が八頭身に見えるのだ。
 『コロッサル・ユース』の主人公は、まさに「背が高い」ということがはっきりと見て取れる。これから観る皆さんに「発見」の喜びを妨げてはいけないが、この映画では、まさにその「背が高い」ということが、欠陥であるかのように描かれている。
 というのは、彼は他人と話すことができない。つまり、コミュニケーションをとることができないということが、その一点に現われているのだ。
 孤独ということがどういうことか。単に「孤独」な状況を描いた映画ならいくらでもあるだろう。しかし、この「映画」においては、他とのコミュニケーションを断たれているほどに、「背が高い」ということなのだ・・・。
※※※※・・・といった、恐ろしいほどに映画的な事象を、スクリーンサイズをキイに、解き明かしていく。
 なお、話がほんの少し横滑りし、現在開催中のカンヌ映画祭で、まさに100歳のオルヴェイラが、イーストウッドを祝福するかのように手を差し伸べている写真が、ネットで公開されている。
 こんな写真が見れるのならば、インターネットも悪くないといった発言に続き、このような監督を生んだポルトガルは紛れもなく世界一であり、その人と共にあるクリント・イーストウッドを生んだアメリカも、まさしく世界一の映画大国なのであると。
 さらにペドロ・コスタの兄貴分、モンテイロについても触れ、最後に、いささか時代がかった口調で、
 「どうぞ、よい夕べを、ペドロ・コスタと共に過ごされませんことを、わたくし、心から期待しております」と結ぶ。