第48回 紀伊國屋サザンセミナー 『映画論講義』刊行記念 「蓮實重彦の映画論講義 特別篇」

 45分も遅れるとほぼ半分を聞き逃したことになるので、完全にリズムに乗り損ねたし、いつものような要約とコメントのないまぜになったレポートは慎もうと思う。
 講義後に配布された上映作品の資料に記された、今日の講義テーマを備忘のためにも以下に記すことで代えることにする。
 タイトル「映画 あるいは類似の罠」
「映画は何ものかに似ることでかろうじてみずからを形成せしめる脆弱な表象形式である。被写体との類似はいうまでもなく、題材、人物、風景、キャメラアングル、編集、等々がそこでは類似が無限に増殖する。それが見る者を惹きつける映画の魅力であり、同時に映画の危険さでもある。であ、増殖する類似を、どのように処理すればよいか。映画自身が思わぬ類似を引き寄せようとするとき、類似への完成をどのように研ぎすませばよいのか。その時、差異はどのように機能するのか。具体的な作品の細部を手がかりにして考えてみる。」
 といったわけで、講義を聞けたのは後半だけだったが、今さらながらのすさまじいシネマの記憶装置ぶりに舌を巻く。
 1点だけ記録しておく。講義の最後のところ。
 「映画はリメイクでないと似ないのか。いや、リメイクでなくても似てしまう」
 という宣言とともに提示されたのは、ソクーロフの新作『チェチェンへ アレクサンドラの旅』だった。
 これは戦場のド真ん中に孫を訪ねて祖母が行くという内容なのだそうだが(その祖母を演じるのがガリーナ・ヴィシネフスカヤ。驚くなかれ、ロストロポーヴィッチ夫人だぞ!)、戦火の孫(息子)を祖母(母)が訪ねる映画が他にあるかというと、1点ある。
 ジョン・フォード『リオ・グランデの砦』だ。しかし、ソクーロフはきっと言うだろう、そんな汚らわしい、自分はいかなる映画も参考にしてなどいないと。
 なるほど確かに戦場の孫(息子)を祖母(母)が訪れるという作品は、映画史には他に存在しない。あれば是非教えていただきたいのだが、ソクーロフが否定したにせよ、それでも似てしまうことがあるという、この映画の罠!などと熱く語りまくる御大。
ということで御大は、『チェチェンヘ』の予告編を最後にご覧いただくと述べ、「拍手は私へではなく、ソクーロフ監督に願います」と締めくくる。
 ところが会場の一部から、予告編の始まる前に拍手が起こってしまい、声はマイクに拾われなかったといえ「いや・・・いやいや・・・」と御大、本気で当惑したところで、ソクーロフ新作のテレイラー上映で幕。

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