山田宏一著『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』

 フランス人には書けないヌーヴェル・ヴァーグをめぐる書物が、日本には存在している。山田宏一の『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』、『トリュフォー、ある映画的人生』がそれである。その2冊に、同じ著者による『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』がつけ加えられたことの贅沢(ぜいたく)を、わが国の読者はどう受けとめるのだろう。
 トリュフォーゴダール、あるいはヌーヴェル・ヴァーグを詳細に論じた書物は、フランス語や英語でいやというほど読むことができる。だが、この著作の稀有(けう)な貴重さは、「一九六四年末から六七年半ばまでパリに滞在し」、ヌーヴェル・ヴァーグの温床ともいうべき『カイエ・デュ・シネマ』誌の編集部にも迎えられ、いわば「《渦中にある》」日々を送った体験がその言葉を生々しく支えていることにある。それでいて、特権的な証人が過去を懐かしげに回想するのではなく、すべては「現在」に向けての「ドキュメント」として構想されており、ゴダールによる映画や文学の引用の出典の新たな発見と検証――『アルファヴィル』の部分が、著者自身の写真とともに特に充実している――が、本書を最良の批評たらしめている。
 ゴダールには何度も会いながら、「おそれ多くて」インタビューもできなかったという山田氏は、この書物の対象を60年代のいわゆる「感情の映画」に限定し、その主演者アンナ・カリーナへの絶えることのない心の震えを言葉のすみずみにまで行きわたらせている。著者は、一時期の夫であった映画作家ゴダールとは比較にならぬほど、このデンマーク系の神話的な女優に執着している。その「愛」は32年ぶりのインタビュー「アンナ・カリーナに聞く」にみちあふれており、カリーナもまた誠実さ以上の言葉でそれに応えている。
 ゴダールは、つい最近、『女は女である』はごくつまらない映画だと述懐しているが、「わが(ヽヽ)アンナ・カリーナ」への「愛」故に、山田氏はその言葉を容認しまい。他人の「愛」に他人事とは思えぬ関心を寄せてしまうのが映画であるなら、この書物はとめどもなく映画に似ている。